全身の精密検査を受けた結果、幸いにも他の臓器への転移は見当たりませんでした。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩んだ気がしました。
「とりあえず、そこは大丈夫なんだ」
そう思えたのも、ほんの一瞬でした。
医師はそのあと、少し言葉を選ぶようにして、こう続けました。
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「卵巣に水が溜まっているようです。あと、肝臓と腎臓にも腫れが見られます」
頭の中が、一瞬で真っ白になりました。
転移がないと聞いて少しだけ安心しかけた心が、その数秒後にはまた深い不安に引き戻されていく。
そんな感覚でした。
これらについては、さらに詳しい検査が必要とのことで、大学病院への紹介状を渡されました。
乳がんだけでも十分に受け止めきれていなかったのに、まだ終わらないのか――。
そう思った時、心のどこかで小さく何かが崩れる音がした気がしました。
子宮全摘のあと、行かなかった卵巣検診。責めたくなるのは、いつも自分だった
数年前、私は子宮筋腫のために子宮を全摘しています。
その時、医師から言われていたことがありました。
「卵巣の定期検診は、ちゃんと受けてくださいね」
あの時は「分かりました」と答えたのに、結局その後、一度も受診しませんでした。
忙しかったから。
余裕がなかったから。
毎日を回すだけで精一杯だったから。
理由はいくらでも並べられるのに、結果として残るのは、「行かなかった自分」という事実だけでした。
もし、あの時ちゃんと診てもらっていたら。
もっと早く何かに気づけていたのかもしれない。
そんな“もしも”ばかりが頭の中をぐるぐると回って、焦りと後悔が静かに押し寄せてきました。
病気になると、人はどうしても過去の自分を責めたくなってしまいます。
あの時の選択を、今の苦しさに結びつけてしまう。
でも本当は、あの頃の私はあの頃の私なりに、毎日を生きることに必死だっただけなのだと思います。
それでも、心はなかなかそう割り切れませんでした。
自分のことはいつも後回し。不規則な生活と無頓着だった日々
乳がんだけではなく、次々と見つかる体の異変。
検査結果を聞きながら、私はこれまでの自分の暮らしを思い返していました。
振り返ってみれば、私の日常は決して整ったものではありませんでした。
生活リズムは不規則で、食事も睡眠も、その日その日をなんとか乗り切るためのものになっていた気がします。
子どもたちには、できるだけ栄養のあるものを食べさせたいと思っていました。
成長していく体に必要なものを、なるべくちゃんと与えてあげたいと、そこには気を配ってきたつもりです。
でも、その一方で、自分の食事はいつも後回しでした。
適当に済ませることも多かったし、疲れている日は食べないまま寝てしまうこともありました。
「母親」としての役割には必死だったのに、ひとりの人間としての自分には、驚くほど無頓着だったのだと思います。
もっと自分の体を気にかけていたら。
もっと睡眠をとって、もっと食事を整えて、もっと健診を受けていたら。
そうすれば何かが防げたのかもしれない――。
そんな考えが何度もよぎりました。
もちろん、生活習慣だけが原因ではないことも分かっています。
病気はそんなに単純ではないし、ちゃんと気をつけていてもなる時はなる。
それでも、「もう少し自分を大切にできていたら」という後悔は、どうしても心に残ってしまいました。
父を亡くした数か月後に突きつけられた、「がん家系」という現実
病院で何度も聞かれる質問があります。
それは、「ご家族に、がんの方はいらっしゃいますか?」というものです。
そのたびに私は、少し息を飲むような気持ちになっていました。
なぜなら、私の家系は、いわゆる「がん家系」と呼ばれてもおかしくないほど、がんとの縁が深い家系だったからです。
そして何より、私が乳がんの告知を受けたのは、父を大腸がんで亡くしてから、まだ数か月しか経っていない頃でした。
あまりにも近すぎる別れのあとに、自分自身の病気まで突きつけられるなんて。
人生は時々、本当に容赦がないと思いました。
働き続けた父の背中と、忘れられない言葉
父は、働き者で真面目な人でした。
決して口数が多い人ではなかったけれど、その背中にはいつも家族を支えてきた重みがありました。
私が離婚して、3人の子どもを連れて実家に戻った時も、父は何も言わずに受け入れてくれました。
責めることも、問い詰めることもなく、ただそこにいてくれた。
その静かな優しさに、どれだけ救われたか分かりません。
「子どもたちがいる方が賑やかでいい」
父は、そんなふうに言ってくれていました。
その言葉の裏に、どれだけの覚悟や愛情があったのか、当時の私はきっと全部は分かっていなかったと思います。
生活を助けるために、父は年齢を重ねても働き続けてくれました。
自分のためというより、家族のために。
その背中を見ながら、私は何度も「申し訳ない」と「ありがたい」の間で揺れていました。
そんな父を、私は大腸がんで亡くしました。
やっと少し、自分の時間が持てるかもしれないと話していた矢先のことでした。
あまりにも早すぎて、あまりにも切なすぎる別れでした。
2人に1人ががんになる時代。それでも「自分が入る側」だとは思っていなかった
父だけではありませんでした。
父の両親も、がんを患っています。
こうして並べてみると、家族の中に「がん」という言葉がどれほど自然に存在していたか、改めて思い知らされます。
今の時代、2人に1人ががんになると言われています。
そして乳がんは、9人に1人とも言われるほど、決して珍しい病気ではありません。
数字だけ見れば、どこか遠い話ではないはずなのに、それでも人はどこかで思ってしまうのです。
「自分はまだ大丈夫」
「自分はそちら側じゃない」
私もそうでした。
家族歴があっても、どこかで自分にはまだ来ないと思っていた。
でも、その“まさか”の中に、私もしっかりと入ってしまったのです。
父は病院嫌いで、限界まで受診を拒んでいました。
やっと仕事の区切りがついて病院へ行った時には、すでに末期の状態だったと聞いています。
病院へ行くのが怖かったのか、現実を見たくなかったのか、それともただ、自分のことを後回しにし続けてしまったのか。
今となっては、父の本当の気持ちは分かりません。
でも、その姿が、どこか今の自分と重なって見えてしまう瞬間がありました。
家族のために頑張る人ほど、自分の異変を後回しにしてしまう。
その怖さを、私は父の背中と、自分の体の両方から思い知らされていたのかもしれません。
苦い記憶の残る大学病院へ、再び向かうことになった日
紹介された大学病院は、自宅からかなり離れた場所にありました。
距離の問題だけでも気が重いのに、その病院名を聞いた瞬間、胸の奥にずしんと重たいものが落ちてきました。
そこは、私にとってただの大きな病院ではなかったからです。
実はその場所は、下の子が超未熟児(超低出生体重児)で生まれた時にお世話になった病院でした。
あの頃の記憶は、今でも体の奥に残っています。
病院の空気、廊下の冷たさ、消毒液の匂い。
どれも、思い出そうとしなくてもふと蘇ってしまうような、濃い記憶でした。
NICUに通い続けた日々と、消えなかった空気の記憶
当時の私は、毎日その病院に通っていました。
小さすぎる我が子がNICUで生きている。
その事実だけで、胸が張り裂けそうになる日々でした。
普通の赤ちゃんとはあまりにも違う小さな体。
細い管につながれた姿。
「どうか生きてほしい」
ただそれだけを祈るようにして、毎日毎日、その場所へ足を運んでいました。
だからこそ、その病院は私にとって、命を救ってもらった場所であると同時に、二度と思い出したくないほど苦しかった場所でもありました。
まさか数年後、今度は子どもではなく自分自身の病気で、またあの門をくぐることになるなんて。
そんな未来は、当時の私には想像もできませんでした。
人生は本当に、時々どうしようもなく皮肉です。
足取りは重く、気持ちはどこまでも沈んでいきました。
それでも私は、その場所へ行くしかありませんでした。
かつてあの病院が、わが子の命を繋いでくれたように。
今度は、私自身の命を繋いでくれる場所になるのかもしれない。
そう信じるしかなかったのです。
(※当時の壮絶な記録は、別記事にまとめています)
▶︎ 超未熟児【第1話】前置胎盤で突然の出血!絶望的な結果と壮絶な日々
Rino’s Choice|眠れない夜を少しだけやわらげてくれそうなもの
病気のことを考え始めると、心だけではなく、暮らしそのものが落ち着かなくなることがあります。
ベッドに入っても眠れない。
横になっても、頭の中だけがずっと動き続けている。
そんな夜が、あの頃の私には何度もありました。
だからこそ、少しでも「休める環境」を整えることは、心を守るためにも大切だったように思います。
ここでは、そんな時期にそっと寄り添ってくれそうな、やさしい暮らしのアイテムを置いておきます。
体を預けたくなる、やわらかなベッド
不安が続くと、体も知らないうちにずっと緊張しています。
そんな時、ただ横になれる場所があるだけで、心の張りつめ方が少し変わることがあります。
しっかり体を支えてくれるベッドは、眠るためだけではなく、気持ちを一度静かに戻すための場所にもなってくれます。
「ちゃんと休むこと」も、治療に向かうための大切な準備のひとつでした。
気持ちが沈む夜に寄り添う、布団セット
眠れない夜ほど、寝具の心地よさに救われることがあります。
やわらかく包まれる感覚は、それだけで少しだけ心を落ち着かせてくれるものです。
病気と向き合う時期は、日中の強さだけでは乗り越えられないこともあります。
夜の自分をちゃんと休ませてあげることも、きっと同じくらい大切です。
「手の届く安心」を作る、ベッド横収納棚
薬や飲み物、ティッシュ、スマホ、読みかけの本。
しんどい時ほど、すぐ手が届く場所に必要なものがあるだけで、気持ちが少し楽になることがあります。
小さな収納棚は、ただ便利なだけではなく、「今の自分にやさしい暮らし方」を整えてくれる存在でもありました。
こういう小さな工夫が、気持ちの余白を少しずつ増やしてくれることもあります。
不安をひとりで抱え込まないために|カウンセリングという選択肢
病気のこと、家族のこと、お金のこと、未来のこと。
考えなければいけないことが重なると、心は思っている以上に疲れていきます。
周りに心配をかけたくなくて、つい「大丈夫なふり」をしてしまうこともあるかもしれません。
でも本当は、そういう時ほど、自分の気持ちを安心して話せる場所が必要なのだと思います。
カウンセリングは、弱い人が頼るものではなく、心を守るためのひとつの手段です。
もし今、誰にも言えない不安や苦しさを抱えているなら、専門家に話してみることも、決して大げさなことではありません。
ひとりで抱え込まないための、やさしい選択肢のひとつとして置いておきます。
まとめ|逃れられない運命のように思えた日、それでも私は前へ進むしかなかった
転移はなかった。
その結果だけを見れば、救われたはずの日でした。
でも現実は、それだけでは終わりませんでした。
卵巣、肝臓、腎臓。
次々と見つかる体の異変。
そして、父を亡くしたばかりの心に突きつけられた、「がん家系」という現実。
次から次へと押し寄せてくるものに、心が何度も折れそうになりました。
父がそうだったように、私もまた「子どもたちのために」と走り続けてきたつもりでした。
でも、その間に、自分の体はずっと後回しになっていたのかもしれません。
その積み重ねが、今になって一気に姿を見せてきたような気がして、どうしようもないやるせなさもありました。
それでも、立ち止まったままではいられませんでした。
大学病院という、私にとって苦い記憶の残る場所へもう一度向かうこと。
それはただ検査を受けるというだけではなく、過去の自分と、今の病気の両方に向き合うための試練だったのかもしれません。
絶望の淵に立たされても、隣には守るべき子どもたちがいる。
そのぬくもりが、どれだけ私を支えてくれたか分かりません。
泣いても、怖くても、心が折れそうでも。
私はまた、一歩ずつ前に進いていくしかありませんでした。
次回記事へ
「副腎に影がある」
その一言で、私の日常は再び暗闇に引き戻されました。
さらに続く精密検査、持病の喘息、そして再建手術にも影を落とし始めた新たな問題。
次回は、次々と見つかる異常の中で、心が限界に近づいていった日々について綴ります。
▶︎ 【特別編:副腎と喘息】乳がん精密検査で次々と見つかる異常。副腎の腫れ、持病の喘息、そして再建手術の「残酷な現実」
※本記事は個人の体験談です。病状や治療内容、検査結果には個人差があり、すべての方に当てはまるものではありません。体調や不安がある場合は、必ず医療機関や専門家へご相談ください。
また、掲載しているサービスや商品は、当時の気持ちや生活の中で「こういう選択肢もある」と感じたものを紹介しています。ご利用・ご検討はご自身の状況に合わせてご判断ください。

