壮絶な出産と、長い入院生活を経て。
気がつけば、あの小さな命が生まれてから、1年という月日が流れていました。
生まれた時の体重は720g。けれど、その小さな体は数日後、520gまで落ちてしまいました。
それでもあの子は、確かに生きようとしていました。
けれど、退院は“ゴール”ではありませんでした。
それはむしろ、家族として新しく始まる「命を守る日々」のスタートでもありました。
この最終話では、退院後に続いた通院の日々、わが子の体に残った命の証、そして母として今も胸に残る想いについて、静かに振り返っていきたいと思います。
※本記事は個人の体験談です。医療的な内容には個人差があり、状況によって異なります。
また、一部プロモーションを含みます。
退院しても終わらなかった、命を守るための通院
NICUを退院できたあの日、ようやく家に帰れる喜びと同時に、私はどこかでわかっていました。
「ここからも、まだまだ気は抜けない」
本来なら、お腹の中で母親から少しずつ受け取っていくはずだった免疫。
あの子は、それを十分に受け取れないまま、この世界へ出てきました。
だからこそ、退院後も月に一度の定期検診が必要でした。
特に怖かったのが、感染症です。
ほんの少しの風邪やウイルスでさえ、命に関わるかもしれない。そんな緊張感の中で、毎月の通院は続いていきました。
小さな太ももに打ち続けた「命の守り神」
その通院のたびに受けていたのが、RSウイルス感染症などの重症化を防ぐための特別な注射でした。
当時の価格で、1本およそ16万円。
それを両太ももに1本ずつ、計2本。
たった一度の通院で、30万円を超える医療費がかかっていました。
まだ小さくて、細くて、やわらかい足。
その太ももに注射を打たれるたび、あの子は全身で泣いていました。
見ていることしかできない私は、胸の奥をぎゅっと掴まれるような苦しさを何度も味わいました。
けれど、それは「今月もこの子を守るための一本」でもありました。
あの頃の私にとって、その注射はまさに“命の守り神”のような存在でした。
支えられていたのは、命だけではなかった
NICUでかかった医療費は、総額で約3,000万円。
さらに、その後も続く高額な治療や通院。
もし、そうした制度や支援がなかったら。
もし、社会の支えがなかったら。
きっと私は、命を守ることと、お金の不安の間で押し潰されていたと思います。
でも実際には、国や地域の制度、医療の仕組み、そして多くの方の支えがあったからこそ、私たちは「ただ我が子の命に向き合うこと」に集中することができました。
それは、今振り返っても本当にありがたいことです。
往復4時間以上かけて通い続けたあの病院。
何度も涙を流しながら通ったあの道。
そしてある日、ついに「卒業ですね」と言っていただけた日のこと。
病院を出た時に見上げた空の色を、私は今でも忘れることができません。
あれは、長いトンネルの先でようやく見えた、やわらかな光のようでした。
宣告を跳ね返して残ったもの、残らなかったもの
あの頃、私たちはたくさんの「かもしれない」を抱えて生きていました。
失明するかもしれない。
重い障害が残るかもしれない。
発達に大きな影響が出るかもしれない。
希望を持ちたいのに、現実はいつも厳しくて。
前向きな言葉を信じたくても、心のどこかで最悪の未来ばかりを想像してしまっていました。
「見える」こと、「生きている」ことの尊さ
「失明するだろう」と言われていた左目。
実際には、弱視という形で視力の課題は残りました。
それでも、あの子は光を見ることができました。
そして、私たちの顔をちゃんと見つめてくれました。
その事実だけで、どれほど救われたかわかりません。
「見えている」
ただそれだけのことが、あの頃の私には奇跡でした。
そして、脳への影響についても「90%の確率で重い障害が残る可能性がある」と言われていました。
あの言葉は、今でも忘れられません。
頭の中にずっと残って、眠れない夜を何度もつくりました。
でも、あの子はその不安をひとつひとつ跳ね返すように、すくすくと成長してくれました。
もちろん、成長の中で心配がゼロだったわけではありません。
けれど結果として、大きな障害を残すことなく、今日までしっかりと生きてきてくれました。
それは、ただ「運がよかった」の一言では片づけられないほどの、たくさんの奇跡の積み重ねだったと思っています。
体に残った傷跡は、命の勲章
すべてが“なかったこと”になるわけではありません。
生まれてから数ヶ月のあいだ、ミルクを流し込むために口元を通っていた管の跡。
そして、小さな胸に刻まれた心臓の手術痕。
成長したあの子の肌に、その傷跡を見つけるたびに、私は今でも胸が締め付けられます。
「こんな小さな体で、よく頑張ったね」
「本当に、本当に生きてくれてありがとう」
そんな言葉が、何度でも心の中に浮かびます。
傷が残らないほうがよかったに決まっています。
痛い思いなんて、ひとつもさせたくありませんでした。
でも今の私は、その跡を“かわいそうなもの”としてだけは見ていません。
それは、あの子が命をつないできた証です。
あの小さな体で、今日までたどり着いた証。
生きるために必死に頑張ってきた、立派な勲章です。
誰に恥じることもない。
むしろ私は、母として誇りに思っています。
Rino’s Choice|あの頃の毎日に、そっと助けられたもの
子どもの命を守ることに必死だったあの頃。
正直、何かを「楽しんで選ぶ」余裕なんてほとんどありませんでした。
それでも、毎日の中で「少し助かった」「少し気持ちが軽くなった」と思えるものがあるだけで、暮らしはほんの少しやわらかくなります。
ここでは、そんな日々の中で自然と寄り添ってくれるようなアイテムを、やさしくご紹介します。
赤ちゃんの時間をやさしく包む、ベビーおもちゃ
超低出生体重児として生まれた子どもとの日々は、「できること」が少しずつ増えていくこと自体が大きな喜びでした。
その中で、やわらかな音や優しい色合いのおもちゃは、赤ちゃんにとっても親にとっても、安心できる小さな存在になります。
長時間遊ばせるためというよりも、「今この子が心地よく過ごせる時間をつくる」ために。
そんな視点で選べるおもちゃがあると、毎日に少し温度が戻ってきます。
“目を離せない毎日”を少し助けてくれる、ベビーサークル
赤ちゃんが成長して動けるようになると、うれしさと同時に「守らなければ」という緊張感も増えていきます。
特に、たくさんの不安を抱えながら育児をしてきた身としては、少しの移動や家事の時間でさえ神経を使うものでした。
そんな時、安心できるスペースをひとつ作ってくれるベビーサークルは、ただの“囲い”ではなく、親の心を少し休ませてくれる存在にもなります。
ずっと気を張り続けるのは、本当に苦しいこと。
だからこそ、頼れるものには、やさしく頼っていいのだと思います。
病院通いの時間を支えてくれた、ベビーカー
通院が続く時期、移動そのものがひとつの大仕事でした。
荷物も多い。気温にも気を配る。体調にも神経を使う。
たった一度の外出でも、想像以上に消耗します。
だからこそ、押しやすくて、赤ちゃんにも親にも負担の少ないベビーカーは、毎日の“しんどさ”を少し軽くしてくれる大切な相棒になります。
派手さよりも、静かに使いやすいもの。
そういうアイテムほど、忙しい日々の中で本当に助けられる気がします。
心を立て直す時間も、母親には必要だった
振り返ると、あの頃の私はずっと“戦闘態勢”のままで生きていました。
何かあったらどうしよう。
この子を守らなきゃ。
次の通院まで体調を崩させないようにしなきゃ。
そんなふうに、頭も心も休まることなく張り詰めていました。
母親だから強くいなければ。
泣いている暇なんてない。
自分のことは後回しで当然。
そんなふうに思っていたけれど、本当は、母親だって何度も限界に近づいていたのだと思います。
だからこそ、ほんの少しでも心を緩められる時間が必要でした。
暮らしの中に、小さな「やさしさ」を置くということ
お部屋に一輪の花があるだけで、不思議と空気がやわらかく感じられることがあります。
張り詰めていた気持ちが少しだけほどけて、「今日もなんとかやっていこう」と思える。
そんな小さなきっかけが、暮らしの中には確かにあるのだと思います。
大きなご褒美じゃなくていい。
ほんの少し、自分の心をいたわるものがあるだけで、人はまた立ち上がれることがある。
あの頃の私にも、本当はそういう時間が必要だったのだと思います。
心を整える、やさしい選択肢
頑張ることに慣れてしまうと、自分をいたわることに罪悪感を持ってしまうことがあります。
でも、本当に苦しい時ほど、心を整える小さな習慣は大切です。
もし今、育児や毎日の暮らしの中で少し疲れてしまっているなら。
誰かに話を聞いてもらうことや、自分の心を見つめ直す時間を持つことも、決して弱さではありません。
「ちゃんとしなきゃ」の前に、「私も大丈夫かな」と自分に問いかけること。
それもまた、家族を守るための大切な力だと思います。
家族の形が変わっても、消えなかった想い
月日は流れ、あの小さな命も、今では自分の足でしっかりと人生を歩んでいます。
あの頃、一番甘えたい時期に母親と離れて過ごさなければならなかった上の子たちも、今では立派な社会人になりました。
そして、末っ子が3歳の時。
私は離婚をして、シングルマザーとして生きていく道を選びました。
その選択が正しかったのかどうか。
今でも、時々わからなくなることがあります。
母として、足りなかったもの
私は、いつも必死でした。
生きること。働くこと。育てること。守ること。
毎日を回すだけで精一杯で、「母親らしいこと」を十分にしてあげられなかったという後悔は、今も私の中に残っています。
もっと甘えさせてあげたかった。
もっと話を聞いてあげたかった。
もっと、ただ隣にいてあげたかった。
でも現実は、理想通りにはいきませんでした。
寂しい思いも、我慢も、たくさんさせてしまったと思います。
そのことを思うと、今でも胸の奥が静かに痛みます。
時間が経てば薄れるような後悔もあるけれど、母親としてのこういう想いは、きっと完全には消えないのだと思います。
私の中には、今もずっと、子どもたちへの懺悔のような気持ちが残っています。
それでも、私を救ってくれたのは子どもたちだった
けれど、不思議なことに。
そんな私を、何度も救ってくれたのもまた、子どもたちでした。
「3人を一人で育てていく」と決めた私を、あの子たちは一度も責めませんでした。
誰よりも大変だったはずなのに、文句を言うこともなく、それぞれの場所で懸命に育ってくれました。
本当は、私が守るはずだったのに。
気づけば私は、子どもたちのまっすぐな強さに、何度も守られていました。
命の重みも、優しさの深さも、前を向く力も。
私は母親として教える側だったはずなのに、実際には子どもたちから教えられてきたことのほうが、ずっと多かった気がします。
未来へ。つらかった過去を、幸せに変えていくために
母親として、至らなかったことはたくさんあります。
もっとこうできたかもしれない。
あの時ああしていれば、と今でも思うことはあります。
それでも、ここまで歩いてこられたのは、あの子たちが授けてくれた「生きる力」があったからでした。
520gで生まれたあの子。
必死に今日まで生きてきたその姿。
そして、それぞれの寂しさや不安を抱えながらも、まっすぐ育ってくれた上の子たち。
あの子たちの存在があったから、私は何度でも立ち上がることができました。
今の私の願いは、とてもシンプルです。
「今までつらい思いをした分、これからはたくさん幸せになってほしい」
それだけです。
多くの方に支えられ、いくつもの奇跡を重ねてつながってきた命。
その命が、これから先も、それぞれの場所であたたかく守られていきますように。
どんな困難があっても、あなたたちならきっと大丈夫。
私はこれからも、少し離れた場所から、溢れるほどの愛と祈りで、あなたたちの後ろ姿を見守り続けていきたいと思っています。
まとめ|520gから始まった命の物語が教えてくれたこと
520gという、消えてしまいそうなほど小さな命から始まったこの物語。
絶望もありました。
無力感もありました。
眠れない夜も、涙が止まらない日も、何度もありました。
それでも今、こうして振り返ってみると、あの時間の中には確かに「愛」がありました。
医療の力。
社会の支え。
家族の絆。
そして、命そのものが持っている強さ。
このシリーズを通して私が伝えたかったのは、「つらかったこと」だけではありません。
どんなに小さく生まれても、どんなに不安の中にいても、命はこんなにも強く、あたたかく、誰かに支えられながら生きていけるのだということです。
もし今、同じように暗闇の中にいるお母さんがいたなら、私はそっと伝えたいです。
あなたは、一人じゃない。
今は信じられなくても、きっとこの先に光はあります。
今感じているその苦しみも、いつかきっと、かけがえのない愛おしさへと形を変えていく日が来ます。
我が子が教えてくれた「生きる力」が、今度はどこかで誰かの勇気になりますように。
そしてこの物語が、あなたの心をほんの少しでもあたためる光になれたなら、これ以上うれしいことはありません。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
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このシリーズをここまで読んでくださった方へ。
もしよければ、同じように「命」や「家族」と向き合った、ほかの記事もあわせて読んでいただけたらうれしいです。
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※本記事は個人の体験をもとに綴った記録です。医療的判断や治療方針については、必ず医師や専門機関へご相談ください。
※商品・サービスの紹介は、当時の経験や今の気持ちをもとに「こういう選択肢もある」と感じたものを自然な形で掲載しています。ご利用の際は、ご自身やご家族の状況に合わせてご検討ください。

