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全身の精密検査を受けた結果、幸いにも他の臓器への転移は見当たりませんでした。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩んだ気がしました。
「とりあえず、そこは大丈夫なんだ」
けれど、そう思えたのもほんの一瞬でした。
医師は少し言葉を選ぶようにして、こう続けたのです。
「卵巣に水が溜まっているようです。あと、肝臓と腎臓にも腫れが見られます」
頭の中が、一瞬で真っ白になりました。
転移がないと聞いて少しだけ安心しかけた心が、その数秒後には再び深い不安へ引き戻されていく。そんな感覚でした。
さらに詳しい検査が必要とのことで、大学病院への紹介状を渡されました。
検査は、まだ終わらないのか――。
そう思ったとき、心のどこかで小さく何かが崩れる音がした気がしました。
🌙 子宮全摘のあと、行かなかった卵巣検診
数年前、私は子宮筋腫のために子宮を全摘しています。
そのとき、医師から「卵巣の定期検診は、ちゃんと受けてくださいね」と言われていました。
「分かりました」と答えたのに、その後、一度も受診しませんでした。
忙しかったから。余裕がなかったから。毎日を回すだけで精一杯だったから。
理由はいくらでも並べられるのに、心に残ったのは「行かなかった自分」という事実だけでした。
もし、あのとき診てもらっていたら。もっと早く何かに気づけていたのかもしれない。
そんな“もしも”ばかりが頭の中を回り、焦りと後悔が静かに押し寄せてきました。
病気になると、過去の選択を今の苦しさに結びつけ、自分を責めたくなることがあります。
でも本当は、あの頃の私も、あの頃の私なりに毎日を生きることに必死だったのだと思います。それでも、心はなかなか割り切れませんでした。
🕯️ 自分のことは、いつも後回しだった
乳がんだけではなく、次々と見つかる体の異変。検査結果を聞きながら、私はこれまでの暮らしを思い返していました。
生活リズムは不規則で、食事も睡眠も、その日をなんとか乗り切るためのものになっていた気がします。
子どもたちには、できるだけ栄養のあるものを食べさせたい。成長する体に必要なものを与えたい。そこには気を配ってきたつもりです。
でも、その一方で、自分の食事はいつも後回しでした。適当に済ませたり、疲れた日は食べずに眠ったりすることもありました。
もっと睡眠をとり、食事を整え、健診を受けていたら、何かが防げたのかもしれない。そんな考えが何度もよぎりました。
もちろん、病気の原因を生活習慣だけで語ることはできません。それでも、「もう少し自分を大切にできていたら」という後悔は、心に残りました。
🤍 父を亡くした数か月後に告げられた乳がん
病院で何度も聞かれたのが、「ご家族に、がんの方はいらっしゃいますか?」という質問です。
そのたびに、少し息を飲むような気持ちになりました。私の家族には、がんを患った人が複数いたからです。
そして、私が乳がんの告知を受けたのは、父を大腸がんで亡くしてから、まだ数か月しか経っていない頃でした。
あまりにも近すぎる別れのあとに、自分自身の病気まで突きつけられる。人生はときどき、本当に容赦がないと思いました。
働き続けた父の背中と、忘れられない言葉
父は、働き者で真面目な人でした。口数は多くなくても、その背中には家族を支えてきた重みがありました。
私が離婚し、3人の子どもを連れて実家に戻ったときも、何も言わずに受け入れてくれました。
責めることも、問い詰めることもなく、ただそこにいてくれた。その静かな優しさに、どれほど救われたか分かりません。
生活を助けるために、父は年齢を重ねても働き続けてくれました。その背中を見ながら、私は何度も「申し訳ない」と「ありがたい」の間で揺れていました。
そんな父を、私は大腸がんで亡くしました。やっと少し自分の時間が持てるかもしれないと話していた矢先の、あまりにも早く切ない別れでした。
💧 「自分はまだ大丈夫」と思っていた
父だけでなく、父の両親もがんを患っています。それでも私は、どこかで「自分はまだ大丈夫」「自分はそちら側ではない」と思っていました。
けれど、その“まさか”の中に、私も入ってしまったのです。
父は病院が苦手で、限界まで受診を拒んでいました。ようやく病院へ行ったときには、すでに末期の状態だったと聞いています。
病院へ行くのが怖かったのか、現実を見たくなかったのか。それとも、自分のことを後回しにし続けてしまったのか。今となっては、父の本当の気持ちは分かりません。
🏥 苦い記憶の残る大学病院へ
紹介された大学病院は、自宅からかなり離れた場所にありました。
距離だけでも気が重いのに、その病院名を聞いた瞬間、胸の奥にずしんと重いものが落ちてきました。
そこは、下の子が超未熟児(超低出生体重児)で生まれたときにお世話になった病院だったからです。
病院の空気、廊下の冷たさ、消毒液の匂い。思い出そうとしなくても蘇る、濃い記憶が残っていました。
NICUに通い続けた日々
当時の私は、毎日その病院へ通っていました。小さすぎる我が子がNICUで生きている。その事実だけで、胸が張り裂けそうになる日々でした。
細い管につながれた小さな体を前に、「どうか生きてほしい」と、ただそれだけを祈っていました。
その病院は、わが子の命を救ってもらった場所であると同時に、二度と思い出したくないほど苦しかった場所でもあります。
まさか数年後、今度は子どもではなく自分自身の病気で、再びあの門をくぐることになるとは思いませんでした。
足取りは重く、気持ちは沈んでいました。それでも、行くしかありません。
今度は私自身の命を繋ぐ場所になるかもしれない。
🤎 Rino’s Choice|眠れない夜に寄り添うもの
🌿 不安をひとりで抱え込まないために
病気、家族、お金、未来。考えることが重なると、心は思っている以上に疲れます。周りに心配をかけたくなくて「大丈夫なふり」をしてしまうときほど、安心して気持ちを話せる場所が必要なのだと思います。
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Rino’s ROOMを見る →🌸 まとめ|それでも、一歩ずつ前へ
転移はなかった。その結果だけを見れば、救われたはずの日でした。
けれど現実は、それだけでは終わりませんでした。次々と見つかる体の異変。そして、父を亡くしたばかりの心に重くのしかかった家族の病歴。
父がそうだったように、私も「子どもたちのために」と走り続け、その間、自分の体を後回しにしていたのかもしれません。
それでも、立ち止まったままではいられませんでした。苦い記憶の残る大学病院へ再び向かうことは、過去の自分と今の病気、その両方に向き合うことでもありました。
泣いても、怖くても、心が折れそうでも。隣にいる子どもたちのぬくもりに支えられながら、私はまた一歩ずつ前へ進んでいくしかありませんでした。
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「副腎に影がある」――その一言で、日常は再び暗闇に引き戻されました。さらに続く精密検査、持病の喘息、再建手術にも影を落とし始めた新たな問題について綴ります。
【特別編:副腎と喘息】乳がん精密検査で次々と見つかる異常※この記事は個人の体験をもとに綴ったもので、診断や治療に関する助言を目的としたものではありません。病状・検査結果・治療内容には個人差があります。体調に異変がある場合や不安が続く場合は、自己判断せず医療機関へご相談ください。掲載している商品やサービスは選択肢の一例です。ご自身の体調や状況に合わせてご検討ください。

